すかーとのすそのセンダングサ

画家すうひゃん。の日々感じたことの絵日記

砂鉄の子供 生きづらさを抱えた人たち

 今バイトしいている作業所には生きづらさを抱えた皆さんが通って来て

毎日畑で作物を作ったり選別をしたりしている。

彼らの持っている生きづらさは

自閉傾向や身体障害、精神など様々なんだけれど、

ここに来ている人たちは

素直に自分の感情を表現して

言われたことを守り

一所懸命に仕事をする。

 

そんな彼らに

作業所のボスはいつも

喧嘩をしてはいけません、悪口を言ってはいけません、

おしゃべりをしすぎてはいけません、寒い時は上着をを着ましょう、

手洗いうがいをしましょうなどと、

毎日ほとんど同じことを言い聞かす。

毎日のルーティーンは彼らにとっては大事なこと。

 

いろんな生きづらさを持った彼らが

山の中で土をいじり、自然を味わいながら日々を送ることは

精神衛生上とても良いらしい。

 

なぜか私も彼らといることが心地よい。

彼らを見ていると、私も生きづらさを抱えた一人なんだと気付かされ、

私に毎日嘘のない笑顔を送ってくれる彼らが愛おしい。

 

個性とは個とはなんだろう。

 

以前友人が

この町には障害者が多いから

”気が低い町”と言い放ったのをを聞いたことがある。

 

都会から来た彼女はすぐにどこかの街へ引っ越してしまった。

 

人の少ない場所へ追いやったのは誰だろうか

そして

その個を許容して

生きているこの場所

その場所が”気が低い”とは誰の論理なんだろうか

 

都会から来た私も

ずっとそのことについて考えている。

 

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砂鉄の子供 



否定しても存在して、私を作っているもの

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在日コリアン3世として東京に生まれて、成長して行く段階では、その考え方や思想、歴史の教育、
それを身にまとって生きて来た。

在日コリアンとして生きていく環境は同じ日本だったけど、日本社会とは全く異質のものだった。

はたして在日コリアンとしてのアイデンテイテイは教育によって確立して行き、定着するのだろうか?

私の場合は在日社会では生きづらすぎて、いつも違和感を感じていた。大嫌いだった。

18歳の時にはその世界から離れ、日本の専門学校へ行ったけど、最初、日本人の友達と考え方のあまりの違いに戸惑い、そしてここでもまた私は生きづらさを感じる事になった。

完全にスタートラインが狂っているとさえ感じていた。

教育課程で得たアイデンテイテイは在日社会では唯一無二のものだったけど、同級生の日本人の中では全く太刀打ちできず何も意味の無いもののように思った。同級生は流行りの音楽やファッションの話が主流、私は何も持っていないようで、思想とかアイデンティティとかそんなもの、むしろそれを隠し、生きなければここでは生きて行けないだろうと思い、それを隠した。

 

私の国はどこだろう。日本なのか韓国なのか朝鮮なのか。

 

拉致問題の時に在日は針のむしろだった。
私たちは戦争で日本に来て、ここに生まれ、その流れでここに生きているだけの存在で、
選挙権もないし、むしろ能動的な存在ではなく、どこかで起きる政治的事象に翻弄される受動的な存在。

 

日本では"韓国人です"と名乗り、
韓国に行けば"この人は日本人です"と紹介され、パスポートは韓国人だけれど、アイデンティティの根の部分では、いったい自分が何人なのかもよくわからない。

捨てられた忘れられた民なんじゃないかとも思う。

 

ありもしない特権やヘイトスピーチに翻弄されてることは少なくなくて、
在日は何か言って、知らない人に攻撃されるのがもういやで、あらぬことを言われても、みんな黙っている。

子供の頃はラジオ体操におまえらは来るなと近所の子に言われて、学校には右翼の街宣車が来る。

高校生のときにはチョゴリが切られ、同級生は右翼に刺された。デモの動員も毎年。

 

在日は、どんなに日本社会で根を下ろしても、決して消える事が無い“自分は在日である”という、どこか罪の意識を持っているのかもしれない。

でもそれすらもきっと、在日自身が作り上げてきた意識なのかな。

 

母になってからは子供の未来とかと世界についても、たくさん考えるようになったけれど、
でも作品にも、社会事情がテーマに入ってくるのは、マイナスなことではなくて素直に

あの社会で生きてきたことが大きいのかなという事実として、受け止めるようになった。

 

私は

在日だけど私でしかないので、やりたいように生きるよ。

でも私を作ってきたものは、否定しないで行こうと何となく思ってみたので、書いてみました。

 

在日教育とは全くの的外れな、できそこないの私という存在なんだけど、

目の前のことを頑張っていったら

今まで見聞きしてきたものと、私自身の生まれながらに持っている素養みたいなものがリンクして、

それがネガティブなものじゃない、革新みたいなものになったらいいなと、

うぬぼれとかじゃなくて、本当に願っている。

 

在日じゃなくても同じ。 

この文章を一生懸命に生きているすべての大切な友達に。

 

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実在する子供たちのポートレイト ”赤いマントの子”解説

 

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シリーズ2 "リトルメロデイ" 実在する子供達のポートレイト

子供達は多くの経験や知識の蓄積も少なく、瞬間知り得た情報をたよりに行動を選択して行く。

彼らはたくさんの情報や蓄積等無くても、100人いれば100人違う自己を持って生きている。

 

子供を育てながら、いつしか以前のような内側への問答は少なくなり、今この瞬間に見て聞い

て感じているもの、外側への関心事を作品にしてみようと思うようになった。

作品のテーマや作風は時に、今この瞬間の自分のリアリテイとは違った過去の模倣という

危険もはらむ。模倣ではなく、今見ているものをただ描くといいう行為をしてみようと

思った。

今現在、私自身が目を向け感心を寄せる対象、それは子供たちである。

一見、作家として活動するにあたり、ネガテイブな要素としてありがちな、母親という条件か

らでしか知り得ない世界、社会事情から世界を考察し、また深く潜ることを実践したいと思って
いる。

 

モデルの子供は私の長男、次男、友人の子供といった具合に身近で普段から接している子供達、

感覚とはいえリアリテイを重視し、実際に見て感じる事が出来る対象を撮影し描いている。

反して、背景には抽象的な要素を含ませ、場所や説明は限定しないように描いている。背景は

私の内面の感心事、世界情勢などの示唆的な要素も込めている。

 

子供達は日常からあらゆる問題にさらされているが、例えば”赤いマントの子”のように

アニメのキャラクターなどの衣服などは好んで着たがる。しかしながら親によってはあんなもの

着せられないという親もいれば進んで着せる親もいる。いずれにせよ子供がどうしたいかとい

うよりは幼い頃は親や社会の意思により選択が決定され、

成長するにつれむしろ自己が薄れて行くという段階を一度踏み,また自分自身で構築していくのだろう。

 

さらに"赤いマントの子"を鑑賞した大人は"キャラクターは発達上良くない"というものも

いれば"なんてかわいいのだろう!"というものもいるだろう。その絵の前に立った時に抱いた

感情によって鑑賞者はおのれがどんな潜在意識を持っているのかを確認する。
 
"子供"というありふれた題材だからこそそれに対する基準をそれぞれの大人が持っており、

反するのか値するのかなどの価値観は明確に分かれるだろう。

私たち親は、本来子供たちが生まれながらに持っているアイデンティティとは全く別のものを

無意識に与え続けているという視点が必要なのではないか。
 
しかしながら私が提案するのは気づきであり、批判、教え、導きなどではない。絵を通し、

それぞれが、おのおのの問題意識にフォーカスする手助けになれば幸いです。

 

 

 

震災のたびに

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真っ暗な森の奥、手探りの道を通りぬけたら

湧水がわいていると信じることが出来るのかな?

 

・・・・

 

 5年前に震災があって、ある日突然

思いもよらない事が起こると知った。

一瞬にしていろんな物は失われると。

 

すべての人にとって、死は遠いものじゃない、

私はたまたま生き残っているだけだと感じた。

あれから、メメントモリという言葉が頭から離れない。

 

いつどうなるかわからない、

だからずっと住みたかった土地に住んでみようと決めた。

 

こっちに来るときに

 ”そうやって都会から淘汰されていくんだ”と誰かが言った。

 

その原理から行けば私は淘汰されたのだろう。

 

今の自分はといえば苦しいこともたくさんあるけど、

間違いなく力強くなったなと感じている。

 絵に対する向き合い方も変化した。

私に関しては行動した結果、

後悔はないし、本当に良かったと思っている。

 

それでも5年が経って多少のしがらみが産まれ

強く想ったことも、日常に埋没していく部分はある。

 

そんな中、震災が起こっって

 もう一度、自分の生き方について考えている。

 

たくさんの命が問いかけてくれてる。

 

真っ暗な森の奥、手探りの道を通りぬけたら

湧水がわいていると信じることが出来るのかな?

 

生きている限り、恐れずに選択して行けるかな?

道を照らす人になれるかな。

 

背後霊のはなし

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宮崎に来る何年か前に

1歳年上の姉が

ある霊能者のところへ行ってみないか?と言い出した。

何でも前世やオーラが見える人がいるらしいのだ。

私も姉も、女子の占い好き気分半分、半信半疑であったけれど、

何だか知らない世界を覗くようでわくわくし、行ってみることにした。

行ってみると

マンションの部屋に鋭い目つきの坊主頭のおじさんが座っていた。

パワーストーンみたいなきれいな石が、

薄暗い部屋いっぱいに、所狭しと並べられていて、私の頭はガンガン鳴った。

しばらく会話をしたあとそのおじさんは,びっくりなことを言ったのだった。

 

”あなたの背後霊はやくざの親分です。昔の江戸時代くらいのやくざ、前世も。”

 

えっ?

私は絵描きなんです・・・あのどうかせめてそれらしい人にしてください・・・

と思ってはみたけれど、

その人が言ったことが本当なのか嘘なのか自分ではわからない。

まぁ、思い当たる節も無いわけじゃあないし。

 

 

家に帰ってから旦那に

”やくざの親分って言われた!ショッキング!”と報告した。

 

すると旦那は

”ばかやろう、江戸時代のやくざの親分なんて最高じゃあないか

清水の次郎長とか、やくざの親分だぞ、昔のやくざは弱い人とか助けてたんだぞ

俺なんかやくざの親分って言われたら嬉しいけどなぁ”

と目からうろこ発言。

 

なるほど、言われてみれば困っている人を助けたくなる衝動があるし、

罪を犯した人には同情するし、

弱者が寄って来るし

弱い者いじめとか異様にメラメラ怒りが湧くし

高校生の頃から”お母さんみたい”とか

”背中がお父さんみたい”(これは違うか?)とか言われてたっけ・・

 

何という新境地。

何気に心強くなってしまった。

 

占いとかスピリチュアルとか

本当のことは誰にもわからないし見えないし、

もちろん目に見えないものはあると思うけれど、

何がほんとで嘘かとかに

あまりフォーカスしないようにしています。

 

とりあえず楽しかったので

勝手に追加して

私の前世と背後霊は

 

”やくざの親分で絵描きだった”

 

ということにしておきました☆

 

 

父とのつながりのこと 学者の父と絵描きの娘②

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 父とのつながりを強く意識した出来事があった。

まずは宮崎に来てからの絵との向き合い方が深く関連しているので

それを話そうと思う。

 

2011年、綾に来てすぐ

ご縁から

韓国語の通訳兼事務の仕事をすることになった。

 

 その間は、全く絵も描かず毎日決まった時間働いて、毎月決まった給料をもらい、

もらったことのないボーナスももらった。

絵は描けなかったけれど、その時間は

出来なかったことが出来るようになっていく、とてもやりがいのある時間だった。

 

そんな生活を続けて2年を過ぎた頃から

そろそろ絵を描く生活に戻りたい・・という想いは芽生え始めた。

反面

もしやめて絵に戻れば生活は不安定になるな・・と

柄にもなく迷う自分がいた。

 

どうなるかもわからない自分の才能に苦悩する日々。

過去の自分は楽しくもあり不安でもあったから・・

 

東京にいたころの私は、

何となく”今っぽいかっこいい”に憧れて

ツッコんだ表現を避けた絵を描いていた気がする。

今思えば

その当時は、まだ自分の表現というものが良くわかっていなかったし、

あれこれやってみてはしっくりこない。。という感じだったと思う。

何となく誰かがやってきたことの周りをウロウロして、いい感じのものを描く。

それでもそれなりの評価は得られたし

むしろ社会にエントリーするには、その方が賢いやり方だった。

 

でもそのやり方は、

いつも自分を抑えてるようで、何となく気持ちが悪かった。

 

そんなことを考えながら、

ふいに ”やっぱり絵に戻ろう”と決めた。

 

戻るならば今度は

”自分が求める表現を素直に表現していこう”と心に決めた。

 

その結果誰にも認められなくて、

年老いてのたれ死ぬかもしれないけれど。。。

 

どうしてここまで自分が覚悟するのか良くわからないし、

オーバーな自分に何となく気恥ずかしさや嫌気がさす。

けれど、とにかく

そうでなければいられない自分がいる、ただそれだけだと思った。

 

 

 

それから絵に戻ってからしばらくして

ひとつ上の姉が

”K(父の名前)で検索したらこんな文章があったよ”と父が書いた文章を

どこかの見知らぬ方が転載しているのを発見し、私に教えてくれたのだ。

 

3、「極道としての学問」

研究者というものはボス稼業の者を除けば大体3つのタイプに分類されるであろう.

すなわち,島を発見する人,最短航路を築く人,島を開拓する人の3つである.小生もときには開拓者,ときには最短航海士,といった風であったが,ほとんどの場合は畢竟,標準的な開拓者であったといわざるを得ない.その間,島の発見者になったことなどは皆無,しいて言えばただの1度だけはそのようなケースであったかもしれないと思えるのみである.研究者は,島を発見する人,最短航路を築く人,島を開拓する人,の順に温厚かつ勤勉なる紳士である確率が高くなると言われている.『島を発見する人』なんぞは,どちらかといえば性格破綻者に近いという評価さえある.それに反して『島を開拓する人』は堅実な日常生活を営み,精神的にも社会的にもバランスのとれた人格者であることが多い.こういう視点から自分自身の人生を振り返えってみると,島も発見できず人格者にもなれずただいたずらに日夜悩み続けて来たという実感だけが強い.さて,研究者の最高の栄誉は『島を発見した人』になって後世にその名を留めることであるとされている.研究者なら誰しもこの栄誉に恵まれたいと願っている.しかし,そのためには,本当に『何も発見できない』だけでなくシケの海であえなく『溺れ死ぬ』かもしれないという大きなリスクを覚悟しておかなければならない.このリスクは一般に “all ornothing”リスクと呼ばれているものであり,身も心もボロボロに擦り切れて社会的落伍者となる危険である(このことは,人類の長い歴史の中ですでに実証ずみである).だが,翻って考えてみると,この世は研究とは限らずあらゆる種類の危険に満ち満ちている.安全で確実な人生など1つもないのである.ましてや,安全だけにしがみついた人生など空疎そのものでしかない.であるとするならば,そして,いったん研究者としての道を踏み出してしまったのであるとするならば,いかなることがあっても『島を発見する人』たらんとする研究者魂だけは決して捨てまい.それでベストを尽くしたあとは思い煩うことは何もない,ただ天命に任せればよいではないか.このような信条こそが『極道』すなわち『道を極める』ことに人生を掛けた者達の心意気というものであろう(極道から心意気をとったら何も残らない!).いたずらに右顧左ベンせず,腹を据え捨て身で掛って行くうちには,極道にもそれなりの人格が備わって来るに違いないのである.美しいものに対する感受性とかけがえのない個性だけが頼りの極道達に幸いあれと祈らざるを得ない由縁である.

 

余談だけれど、

私は前世も背後霊も”やくざの親分”と言われたことがある。

まさに極道だ。

 

それはさておき

私はこの文章を読んで正直、とても驚き、不思議な父との縁を感じたのだ。

人にはそれぞれ考え方のクセだったり、

道筋のつけ方だったり、

その結論に至るまでの工程に個性があると思う。

性格的なものも強く影響するわけだけれど、

そこがどうにも似通っていると強く感じたのだ。

 

 

 

 成長する過程に父はいなかったし、何も教えてきてもらわなかったし、

父の声で人生について語るのを聞いたこともない。

 

 けれど学問と芸術という分野は違えど

もちろん結果を残した父と私は比較にならないけれど

私と父はとても似通った道の創り方をしているし

私がこうありたいというあり方で、ずっと先を生きていた。

 

一緒にいなかった時間を

たった1枚の文章が

すべて飛び越えてしまった。

 

きつねにつままれたような、そんな感覚。

 

まるでどこかにひそかにある物語を見ているようだった。

 

 

③に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父とのつながりのこと 学者の父と絵描きの娘①

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父とは4年生くらいから別れて暮らしていたけれど、

6年生の時、母から”アボジ(お父さん)と別れたよ”と告げられた。

私の記憶の中の父は学者で、絵に描いたような変わり者だった。

団地の6畳間の扉の奥には、丸まった論文の原稿用紙が散乱して、

部屋はたばこの煙で視界がぼやけるほどだった。その中にいつも

うずくまるように机に向かう父がいた。

おつかいを頼まれてセブンスターを2箱買って、おつりをもらえ

るんじゃないかと胸を弾ませて帰ったけれど、おつりを

くれることは無く、こづかいをくれない父をうらめしく思った。

そんな父は外国へ出張に行っては、その土地のめずらしい人形なんかを

買ってきてくれて、中でもドイツで買ってきてくれた

木彫りの人形を私は気に入って、ずっと大事に持っていた。

 

変人という言葉が良く似合う父だったけれど、外国に行って、お土産を

買ってきたり、論文に没頭している父を私は内心、誇らしく思っていた。

 

離婚後、父とは10年以上会うことは無かったし、母に気を使って会う

努力もしなかった。

でも大学生の時、風のうわさでD大学の教授なんだという話を聞いた。

 

あるとき、D大学に通う学生と知り合う機会があって、その学生に私は聞いた。

”kという教授を知っていますか?”と。

”知ってるよ”と学生は言ったので、私はうれしくなって

”私の父なんです”と言った。すると学生は”あー、似てる似てる。

感じがそっくりだよ”と言ったのだ。

私はドキドキして、(ずっと一緒にいないのに似てるってすごいな!)と

内心、心が弾んだ。

 

それから何年かして

姉の結婚式で15年ぶりくらいの再会を果たした。

父は昔より何だか全体的に四角くなった気がした。

母はしなやかなスタイルの美人で、私は全く似ていなかったから、

父を見たときに(私は父に似たんだな)とひそかに思った。

15年ぶりの再会でまずこんなことを考える自分は不謹慎なのかな。

でも、こんなものなのだろう。再会はあっけないものだった。

 

それから今の年になるまで、年1ペースで会うようになったけれど

なかなか頻繁に会うという感じにはなれなかった。

そんなこんなでもう父は75歳を過ぎ、私は宮崎へ移住してしまったので

いよいよ父と会う機会は少なくなった。

 

年々、もう父と会えないかもしれないなという想いは強くなり、

そのことで何でもないと思ってきた父不在の

空白の時間に私が欲していた何かがあることに気づいた。

 

もしもその”何か”を確認せずにいたらきっと私は、

死ぬまでその疑問を持ち続けるだろうと感じて、

なるべく父と一緒の機会には話したり、甘えたりしてみようと

心に誓った。

 

②につづく