すかーとのすそのセンダングサ

画家すうひゃん。の日々感じたことの絵日記

韓国と日本の真ん中でドキドキ

今日は絵の事と少し関係ないことを書きます。

 

私は日本で生まれた在日韓国人ですが、

日本にいても外国人、

韓国にいても外国人だと感じています。

ヘイトスピーチは私たちに出ていけと言います。

一度も住んだことのない外国のような母国に行けと言います。

 

韓国に行くと韓国人が私を

”この人は日本人です”と紹介します。

そして私は日本では

”私は韓国人です”と言います。

だから民族教育を受けた在日は、どっちの国にいても

”外国にいる”と感じています。

 

私は

スポーツの応援は日本を応援しますが、パスポートは韓国です。

自分は在日ですが、夫と子供は日本人です。

 

日本人の、ワビサビから来るきめ細やかな心配りが好きで、

韓国人の、テキトーという名のおおらかさが好きです。

在日はその両方を持ち合わせています。

 

 

日本にいて、ヘイトスピーチで出ていけとか、

在日は特権を得ているとか

逆に韓国人が、執拗に日本があんなことを韓国にしてきたという事を聞くと、

どうしたら良いのかわからなくなります。

私は特権なんて持っていません。税金を払い、選挙権はありません。

 

 

先日、交流の仕事で韓国の鎮安郡というところへ行ってきました。

仁川からソウルへ一泊し、車で3時間かかるところにある都市で2泊。

 

その道すがら案内の人との会話です。

 

ソウルでは

”ソウル駅は東京駅に似ていますね”と私。

”あれは植民地時代に作られたんです。”とガイドさんが言う。

 

ダム建設で村が水没した悲しい記録を残す資料館では

”このダム計画は植民地時代に計画されたんです”と館長が言う。

 

全州の韓屋村では

”あれは小学校ですか?”と私。

”はい、あれは植民地時代に作られたんです。”と案内士さんが言う。。。。

 

そうかそうゆうことか。

日本に住んでいて、韓国が日本の植民地であったという

痕跡を見ることはほとんど無く、

韓国にはその痕跡がいたるところに残っており

物理的に

それを意識する機会の、量の違いがあるということ。

その意識の違いはイコール痕跡の違いであるんだと思いました。

 

少し違うかもしれませんが、

原爆の話は日本人にとってはとてもナーバスな話だと思います。

今に至るまで、実際に原爆ドームや資料館、被爆者がおられ、

そしてまた教科書や漫画や書籍に残っています。

 

韓国人は植民地時代の話にナーバスです。

それも同じ理由からではないかなと思います。

 

 

全州の韓屋村で植民地時代の話がまた出たので

”あー何だか気まずいな、こんな話ばかり・・”と、通訳する私は内心思いました。

そんななかガイドさんはこう言いました。

”誤解しないでください、私は変な意味で言っているのではないのです。

日本の功績の部分もあるって言いたかったんです。日本の方は植民地というと

不愉快かもしれませんが、それをわかってほしかったんです”と言いました。

共通の会話?という認識なのかな?

 

そんな人もいるんだと何だか少しほっとした私でしたが、

一緒に行った人たちは少し浮かない顔でした。。

 

韓国と日本は近くて遠い国で、

私にとっては両方大好きな国です。

 

いつも真ん中でいろんな意味でドキドキしています。

 

ふと書きながら

もしかすると日本に残る唯一の痕跡は

在日なのではないかと思いました。

 

 

 

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自分の表現に向かって

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この絵は私が27歳の時に描いた絵です。

 

その当時、表参道はまだ、露店でアクセサリーや絵を売ったりする人達がたくさん並んでいて(今はもうそんなことできませんが)、

私も絵を見てもらおうと、描きためた絵を並べました。

 

その日、一人の40代くらいの男の人が急ぎ足を止め、じっと作品を見て

”絵を買いたいから今度事務所に来て”と名刺をくれたのですが
その人は、某有名80年代のアイドルの歌を作詞した作詞家さんだったのです。

後日、事務所で作品を見せたのですが、じっくり絵を見た後、男性はおもむろに

”やっぱりこの絵は君が持っていた方が良い、
きっとこの作品は君の道しるべになる作品だと思うから”

と言われました。

そしてこうも言われました。
”君にはありきたりの作家になってほしくないな・・・わかるかな?”と。

その時は私なんて恐れ多い・・と思っていました。

 

そんな素敵な言葉をいただいたけれど、あまり参考にしなかった私の絵は

大きく変わりました。
いまどきのカッコヨイ絵を目指してがんばりました。

当時の媒体にあふれていた絵やイラストと比べ、
見れば見るほど自分の絵はかっこわるくどんくさく感じていたからです。

いっけん、そんな行為は自分の本質的な部分からは離れていったようにも見えますが、この活動もとても価値があり、無駄ではありませんでした。

この10年は、あの当時足りなかったものを学ぶための、

大切な期間だったように思います。

 

 そしてあの時、作詞家さんが残してくれた言葉は今もずっと消えない。

 

大切な言葉や人生において気づかなければいけないテーマはいつも、

何年経っても消えず、私がその壁を乗り越えるまで待っているようです。

 

今回の展示で私は、”準備は整った”という感覚を得ました。

 

あとは作品に本気で向き合ってただひたすら製作して行きます。

 

最初に私を見出してくれたあの作詞家さんにまたどこかで会えるだろうか。

 

出会いから 個展開催へ

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1年ほど前に綾城でZINEのイベントをした。

その時は宮崎へ来てから作家活動をしていなかったのでZINEのイベント自体も作家さんに出会いたい!何とか作家活動を再開したいという思いが強かった。

イベントでとっても素敵なZINEを出品している人がいた。

その人のZINEがあまりにも面白くて、宮崎にもこんなセンスを持った方がいるんだ!と感動したのを覚えてる。

その作家さんがとある宮崎市のギャラリーで展示をするというので、さっそくくるりカフェの絵美さんと見に行った。

わかりづらい場所で何とかたどりついたそのギャラリーに私は人目ぼれしてしまった。なんというかただの四角い空間なのだが、その醸し出す空気感がここで展示したいと思わせる場所だった。

ギャラリーのオーナーはご自身も漆の作家さんでほんとに素敵な作品を作るし、志もとても素敵だと感じた。やっぱりオーナーの哲学がこのギャラリーの雰囲気を作っているのかしれない。

展示することになって、久々に製作に集中して、やっぱりこれなんだと自分を取り戻したような気がした。

まだ素振りの段階で100パーセント満足とは言えないが、現時点の自分の実力で精いっぱいやったと思う。

いよいよ個展が近づいた。最近は出会いってすごいなって心から思う。くるりカフェの絵美さんとZINEのイベントをしたことから始まって、イラレ覚えて、おもしろいZINEの作家さんが素敵なギャラリーに導いてくれて・・

このギャラリーとの出会いで、宮崎の文化の底上げのために何かしたいと思っていた4年前の自分を思い出した。

でも、まずは自分の作品にまっすぐ取組み、胸張って自分の絵が良いと言えるように励みたいと思います。今回はその第一歩です。

お時間あるかたは是非個展会場へお越しください。

 

すうひゃん。個展

”スカートのすそのセンダングサ

6月5日(金)から14日(日)

13:00~19:00 月曜定休

garally INDIVIDUAL

宮崎市村角町原口2607-1

0985-88-1223

 

 

 

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終わることのない

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絵を描き始めたとき、18歳のとき

通っていた学校の課題で雑誌の表紙の課題が出た。

その時は想いだけが先行していて

描かれたそれは

表現したかったものの半分も表現できていなかった。

その時に感じた無力感とか情けなさとか

今も鮮明に覚えてる。

 

私の原動力と言えば今もその時に感じた

”頭の中に浮かぶ映像をこの紙の上に表したい”

という欲求でしかない。

 

他者から見ればそれは全くくだらないものかもしれないが

私にとっては大問題で

うまく描けないことが今もなお絵を描いている私を作っているのだ。

 

絵は、

電波らしきものに乗って私のアンテナに落ちてきた

低温の雷のようなもの。

 

 昔と違っているのは、必ずしも頭の中と同じである必要が無く

偶然生まれたものの形を手伝う作業が加わったことだ。

 

でも、うまくなりたいという気持ちは変わらない。

その作業は終わることはない。

 

 

子育て世代の大人のはなし

 

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子供たちを誰が育てるのか。
自分、
社会全体、
学校、
友達・・・

子供たちをどう育てるのか。
きっちり社会のルールの通り、
なるべく尊重して、
ほっておく・・・

価値観が多様化して
きれいごとの自分勝手と
思考停止の秩序と
キャパオーバーの大人と・・・

場所が変わったり、
コミュニティが違うと、
これでもかと
大人どうおし糾弾し合い、
子どもを育てるどころか
大人が
足の引っ張り合いをしている。

いったい問題の
始まりはどこで、
どこまで糸をたどれば
答えに行きつくのだろう。

みんな親のせいだとしたら
それこそ
ピテカントロプスの時代まで
さかのぼらなければいけない

空想で遊ぶ子供と現実の中で生きる大人

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みんな、空想の中で遊ぶ子供と

現実の中で生きる大人が共存している。

子どもの時にはたくさん空想して創造的に生きてた。

大人になると、社会の中でいかに上手に生きるかという

スキルにほとんどの時間を費やして生きる。

 

空想の声は

スキルにとっては

むしけらみたいに小さな声だから

聞こえない。

 

どちらかが体を支配するんじゃないのに。

 

スキルと空想が手をつないだら

世界はもっと広がるのに。

 

 

 

 

宮崎 初個展

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2011年6月に東京都町田市から宮崎県へ移住した。

もうすぐ4年が経つ。

 

子ども二人と旦那と仕事も無い場所へ来て

最初の2年くらいは絵も描けずに

役場の仕事をしていた。

今までやったことも無い、保険とボーナスがもらえる仕事。

生活のために必死だったから、

とにかく一生懸命働いた。

 

東京にいたころは何となく絵で食っていく自信が無くて

安定したいな・・なんて考えたことも実はあったけど、

いざそんな生活をしてみると

どうしても絵が描きたくて仕方がなくなった。

 

宮崎でふつうに生活してみて

不思議と

自分の中にあった絵に対する自信の無さは消え

結果はどうあれ

死ぬまで好きなことやって

死んで行きたいと思うようになった。

 

4年目にして

ベストなこんな感覚の時期に

個展を開くことが出来るなんて

 

神様、

まるで放し飼いのような、そぶり見せながら

実は私に長ーい綱つけて

たづなはしっかり持ってらっしゃる。

 

と思うのであった。